頭の中を何もなくすると

どうなのかな?
最近頭の中が静かな状態が続いている。

そう、現実問題として色々あるけれど、そう大したことではない様な気がしている。

色々考えたり、不安がっていたり、期待したり、時には喜んでみたりして生きてきた。

でも、なんかそこから離れている感情があって興味がなくなってきた。

そんな生活を続けてしばらくすると、夢なんかあまり見た事が何十年も無かったけれど、最近やたらと夢を見る。
そう意味のある夢でもない。
過去の自分の夢を見る。

これも考えないとならないクセみたいなものが出てるのかな?

目を覚ましている時も、
ちょっと違う事が気になる。

例えば仕事の合間に森を眺めている。

風ひとつ吹いていない。

木々の葉も微動だに揺れひとつ無い。

そう真剣に今まで眺めた事すら無い。
何故なら色々考え事があって、そんなに眺めている余裕もないし、眺めていても、
頭の中が忙しくて、見ていて見ていないのだ。

ところが、空っぽにしてただ眺めていると、面白いことに気がつく。

風ひとつ無い、木々の葉も微動だに揺れすらしていないのに、ある一本の木の、ある一本の枝の、そのまた先の枝分かれしている枝に付いている葉っぱ一枚だけがユサユサ揺れている。

他は全く微動だにしていないのに、その一枚の葉っぱだけがユサユサと激しく揺れている。

何か虫など、または小動物がいるのかと思い、立ち上がり覗き込む。

何もいない。

そんな現象を何回も見る。

勿論違う日、違う葉っぱ、
またはそれは草や、つる系の植物にも見受けられた。

僕は木とは黙って立っているだけだと思っていた。

彼らは自ら動くのでは無いか?と最近思っている。

正解か不正解など関係ない。

そう思えばいいだけだ。

ただ、そのシーンに何度も出会っている事実だけでいい。

そんな不思議な事がよく
あるように思えて仕方ない。

今日も買い物に出かけようと
玄関の扉を開けて、車に乗ろうとした時、駐車場の後ろの森から、花吹雪ならぬ、
落ち葉がフワフワと緩やかに優しく舞って落ちてきた。

なんか優しい言葉にも似た
現象だ。

自然界と会話するとはこういうことかもしれない。

言語だ、現実だ、常識だという所から離れて、
頭を空っぽにしていると、
思考ではなく、感じるだけに
なる。

感じるということを、いつしかみんな忘れているではないだろうか?

それは言葉ではない。
理屈でもない。

見ていて見ていない。

聞いていて聞いていない。

そんな人達が多くなっている気がする。

ネオンの街で騒音の中、
みんな会話を交わしていて
見もせず、聞いてもない。

静寂の中の静寂を聞いてみるといい。

見えないのに、見えるものがある。

静寂なのに聞こえるものがある。

どこにいても、まずは頭の中を静寂にしないとならない。

そんな出来事を普通は誰も気にしないだろうが、ほのかに嬉しいような、楽しいようなそんな世界に入れる。

日常それらは、どこにでも転がっている。

アンテナがみんな錆びついていて感じ取る事が出来ないだけだ。

考えるのではなく、
感じる生活をお勧めする。

そこには〇〇だから、
〇〇だからというものは
一切ない。

僕は昨年まで都会に住んでいた。
オートバイでROUTE246を
走っていた時、街路樹の葉っぱが一枚落ちてきた。

スピードもそれほど出しておらず、走行しているのにも
邪魔になるような落ち方ではない。
しかも一枚落ちただけだ。

だけど僕はスピードを緩めた。

何故?と聞かれるとわからない。

でもスピードを落としたきっかけはその落ち葉だった。

すると横道からダンプが
飛び出してきた。

あのままだったら、おそらく衝突していただろう。

僕らはそういう不思議な世界に住んでいる。