武士道という本を読んでいる最中だ。
新渡戸稲造著の一時有名になった本だ。
あの時は分厚く大きな本だったし、機会もなく読むことが許されなかった。
最近本屋に立ち寄り、文庫本位のサイズで出ていたので、
手に取ったというわけだ。
一気に読めるが感心ひとしきりで一節毎に考えさせられるものばかりで、その都度手を止めては物思いにふけり、その内容を噛み締めている。
確かにそうだ。
そう、その表現だ。というように。
この武士道という精神は、阿吽の呼吸で年輩の方は理解しているだろう。
しかし著者の目的はこれを西洋人に理解させるために書いている本だ。
現に世界的に各国の言語に訳されて爆発的にブームになった本だ。
ところが現在の若者にはこのニュアンスは伝わらない。
この本のような伝え方をして初めて理解するだろうと思えるのである。
これは日本人として、日本に生まれながらもったいない話である。
この感性、この精神、この道というものを理解していなければ、もはや日本人と呼んでいいのだろうかとすら思えるのだ。
これは剣道、柔道、弓道、
合気道の様な武道を極めていくと通ずるものだが、茶道、花道というものも、極めていくと、同じ所に辿り着く事を語っている。
しかしそれは言葉や技術指導と言うものでは教えられない物なのだ。
日本は昔からその様な宗教であり、道徳の様な道と言うものを伝えられてきた。
神道というものは経典がない。
世界のあらゆる宗教にはバイブルという物がある。
しかし神道は見て学ぶというものでしかなく、教典などない。道と付く武道にしても師範は言葉で伝わらないので、鍛錬した自分がそれ、そのものになっていなくてはならない。
もっというなら、伝えようともしない。
ただ己の鍛錬のみであり、己と向き合っている修行者の様なものだ。
弟子はそれを見て、真似ていくという形から入るが、それはやがて真似ではなく、何故その振る舞いをするのか?
何故、その精神状態でいられるのか?ということから、形ではない事を知るのだ。
そしてそれは形骸化した形より、中味を重視するようになり、仮に有り得ない形でそれを迎えたとしても、それを美と捉える境地に入る。例えば茶道でいうなら施す方も、受ける方もだ。
それは説明なきお互いの阿吽の呼吸ではないが、初対面でも、お互い一瞬にして理解する。
そして、お互い相手に対してこの人は只者ではないと理解し合うのだ。
これは武道においても、スポーツ化してしまった現代では理解できないだろう。
もうひとつ例を挙げてみよう。
例えば日光が強く照りつける時、外を歩いているとしよう。
そこで知り合いの女性が向こうからやってきて、挨拶を交わすとしよう。
私は帽子を取り挨拶をする。
女性は日傘をさしていたが、しばし立ち話になる折、その日傘を下げ日光に当たりながら話に受け答えをする。
西洋の考え方なら、それほど馬鹿らしい事はない。
しかし日本の精神は、貴方と同じ立場で接しさせて下さいという、相手を思いやる精神が、その挨拶には織り込まれている。
人に贈り物を差し出す時、つまらないものですがと渡す。
西洋では侮辱をしているようなものだという表現としか捉えない。
これは素晴らしい物だと渡すべきと思うだろう。
根底は同じだが、日本は貴方様程の方には、これが見合っているとは思いません。
せめて私の気持ちとして、粗品ですが、貴方様の足元にも及びませんがお納めくださいと、気持ちを送るのだ。
物を送るのではなく、精神を送るのだ。
これは武道に、または芸術である、花道に、または茶道にも通じ、極めると一つのところに行き着く事を、日本人は知っていたのだ。
ところがその1番大切な精神が抜けてしまい、型やルールと言った具合に、形骸化してしまった。
全ての強さ、弱さ、美しさ、静寂さ、しかしそれでいて、優雅さを兼ね備えて勇敢さ、動じない精神という物があった事を思い出させてくれる。
その説明なき指導、形ではないその一番肝になる見えないそれは、今の人では理解しないだろう。
あらゆる武道はスポーツに化け、花道や茶道も形だけになってしまった。
しかし本来はそこを伝えるものではない事を先人たちは知っている。
むしろそこではないとまで言っていたのだ。