朝の老婆を見かけて

朝、乳母車に農作業に使う道具を載せて、腰の曲がった老婆が押して歩いているのを見かけた。
おそらく畑に向かう途中なのたろう。

腰は曲がり、身体中があちこち痛い身体なのだろう。

それなのにこんなに朝早くから畑に向かっている。

おそらく昨日も、その前も毎日通っているのだろう。

それは食べていく為にということではないだろう。

そんな大規模農業など出来もしないだろうし、今までしてきたから畑を荒らしたくないし、毎日の日課だから畑仕事に向かっているのだと思う。

だが身体のあちこちは痛いに決まっている。

なのに畑に向かっているのだ。

休めばいいのにとも思う。

仮に死ぬまで畑をやったところで、その後子供たちはそんな割に合わない事などしないだろう。

だけど彼女は畑に向かっているのだ。
健康の為と言えばそれまでだろうが、そんなことで毎日をやり切れるものではない。

そんな事を誰もが気にしないだろう。

しかしそれは尊敬に値すると僕は思うのだ。

それはある意味信念がないと出来ない事だからだ。

彼女もまた病院にお世話になっている1人かもしれない。

しかし朝から病院に並び、帰りに喫茶店で雑談をしている老人とは違う。

何を彼女をそうさせるのか、
僕は聞いてみたい。

しかし彼女は笑って答えるだろう。

むかーしからして来ていることだからね、と。

その自然の営みを全く分からない理解出来ない者たちが、やれ経済だ、得だの損だのスキルだのと、世間を賑わしている。

コロナに関してもそうだ。

老婆はマスクなどせずに、今日も世間がコロナに怯えている中、乳母車を押して畑に向かっている。

僕らは何かを忘れてしまっているのではないだろうか?

静かにそういうところに目を向けないとならないのじゃないかと思うのだ。

安倍政権がどう動いたとか、マスクがどうだとか、どれだけ感染率が下がったとか、
恐らく彼女には関係ない。

昨日の作物の成長の違いや、土の違い、草の違いなどだけが、きっと1番の関心なのだろう。

それを見ると何かしらの季節を感じ、何かしらの発見があって、同じものを毎日見ているが、違うものを見るのだろう。
そこに何か心が躍るものがあるに違いない。

それはささやかな何かなのかもしれないが、実は実体の何かを見ているのだろうと思う。

そこは畑であって畑ではない世界があると僕は朝ふと思ったので綴ってみた。