木のスプーン

僕は最近、百均で買った木のスプーンを使っている。

何とも優しくて気持ちがいい。

表面の塗装も剥がれ、洗うと先の方は木に水分が染みてしまい、現代の人はカッコ悪いと思ってしまうかもしれない。

僕はそれが愛おしく思えてしまう。ただ百均なのでカッコがブサイクな作りだ。それが唯一気に入らない。

金属の食器はどうも気に入らない。熱いものを食べる時、すぐ熱くなるし、冷たいものを食べるにも冷たくなりすぎて気に入らない。

それに比べ木は優しい。

縄文人はこうやって木を削り使っていたのだろうか?

縄文人は槍を持って獣を追いかけていたと学校では教えるが、私はそうは思わない。

彼らは高度な文明を持っていたと思う一人だ。

少し前に縄文土器の展示会を見に行った事がある。

それは圧巻の出来であり、繊細な作りだった。

弥生土器と比べると、幼稚園児の粘土遊びと、一流陶芸師の作品の違いほどある事を僕は知っている。

そしてあの繊細な作りは、毛皮を着て、槍で獣を追っている様な奴らに到底作れるものではない。

もっと崇高な高度な文明を持っていたと思っている。

学者はそれを見てわからないほど、目がふし穴だと言わざる得ない。

いや、わかっているのかも知れないが、あえてその様な事にしておかなければならない理由があるのかも知れない。

猿が進化して人間になったと教える学者のことだ。それはまずあり得ないと思っている。

猿が進化したなら、進化途中の生き物もいて当たり前なのに、そこは問わない。

僕から言わせたら猿はいつまでも猿でしかない。

ナスの種からトマトは生まれない。時代が変わり、トマトになったり、きゅうりになったりする筈もない。

それを当たり前に学校で教えるのだから、バカに付ける薬はない。

話がズレたが、今日お気に入りの木のスプーンを買いに行こう。
100円が700円してもいい。安いものだ。

ここは木工の街、飛騨高山だ。

そんなのどこにでも売っているからありがたい。

それも都会と違い種類は豊富だ。

優しい木のスプーンを日常生活に使っている事を誇りに思える生活を送ろう。

いつしか誰かに、そんなボロボロのスプーンは買い換えたら?と言われても、そこがいいんじゃない、と言ってやろう。

そういうカッコいい人間になろう。

流行を追いかけるのではなく、ボロボロでもその良さを語れる人間になろう。

その古めかしさを意図ともせず、その良さに惚れて自信を持って褒められる人間になろう。

しかしデザインは大事だ。

百均の物は分厚く無骨な感じだが、適度な薄さ、適度なカーブ、すくえる大きさと長さのバランス。

そんな美しくて食べやすい木のスプーンを探そう。

大きなスプーンと小さなスプーン、それにレンゲなのか
オタマなのか更に大きいスプーンなのかわからない様な大きめなスプーン。

買いに行く前からワクワクしてくる。

もし無かったら、自分で作ろうと思う。

僕は木工人だし、デザインもしていたが、何でも自分で作り満足する様な人間では無い。

事足りるならそれでいい。

でも、無ければ作れるというだけだ。

それもありがたい。そういうことが優越感に浸れる。

最終的にはそれも選択出来るという切り札を持っているだけだ。でもそれを乱用して自分の満足には繋げないという生き方が好きだ。

例えば700円で買えるなら、
買う方を選ぶ。これを自分がお気に入りの物を作ったんだというハンドメイドにこだわる事はどうでもいいと思っている。

その素材の物で、食事をするというその事そのものに、僕は価値を見出している。

それで満足なのだ。

誰が作ったとか、そんな事はどうでもいい事なのだ。

木のスプーンを使えるその事に僕は幸せを感じるのだ。