歳をとると、あらゆる事に関心が薄くなっていく。
そして自然の木とか、石とか川とかをただ眺めていても飽きない。
それはただ眺めるというより、それらを眺めながら考えさせられる事が多いし、原理原則的な事に気を惹かれるからかもしれない。
若い時はあらゆる事に興味があって、意識はいつもそれらに向かっている。
何を食べようかとか、何かが欲しいとか、今日の〇〇はどうやってこなしていこうとか、常に頭の中にはその様な事で一杯であって、物質的に目の前に広がる何かを追いかけていた様な気がする。
それはそれで大切なことであるし、それらの経験を踏まえて今があるとも思う。
ただ、ある程度何十年もそれらを経験してきて感じる答えが出てくるから、こう感じると思うのだが、究極は得るものも無ければ、失うものなどないということに気がつくのかもしれない。
何か事が為せるか、為せないかということに意識を持っていかれるが、それすらもどちらでも答えは同じだと気がつくのだ。
そもそも人は自分が考えて、自分が判断して、失敗だとか成功だとか言うが、自分とは誰であるのか考えた事がない。
そんなくだらない事は考えるに値しないと思い込んでいるし、その様な社会の教育を受けてきている。
よく降りてくるという言葉で表現するが、そのひらめき、その決断という意味が奥深い事すら考えた事がない。
ただ見る、ただ聞くという、
そのこと自体がものすごく深い話になってくるのだ。
以前にも記事にしたが、受験で友達と同じ高校に入ろうとしたが、自分だけ僅差で落ちた。
思春期の彼女には最悪のシナリオだ。
誰もが最悪だったねと言う。
所が僅差で落ちただけなので
田舎町でバカ学校と言われるところしか無かったところに行くしかないのだが、そこでは常に成績はトップ10に入っている。
進学校に僅差で落ちただけなのだから当然だが、大学受験の時、進学校に進んだ友達はわずかなポイント争いで凌ぎを削り、仮に勝ち組に入れた所で、田舎の大学に行くのが関の山だ。
しかし彼女はトップ10なので試験も受けずに推薦でMARCHに進学出来た。
その時はラッキーと喜んだ。
ここで考えて欲しいのは、
最悪だとか、ラッキーだとか、一喜一憂しているのが何の意味があるのかということだ。
誰がそう言うのか?
そう習ってきている、過去を土台とした自分が言うのであって、今現在のピチピチと生きている自分が言っているのではない。
しかし、知識の蓄積、記憶の蓄積の自分が言っているにも関わらず、自分が判断、決断したと思い込んでいる。
そんなどうでもいいことを何十年にも体験を繰り返して、やっと気がつき始めたのかもしれない。
先生は自然界に溢れている。
欲が無くなり、ありのままを見つめて、ありのままに認める事が出来た時、人は降りてくると言う物が、本当の意味で理解すると思うこの頃だ。