日本語はどの様にも受け取れる文化を持っている。
これを説明するのはかなり厄介だが、話してみようと思う。
例えばあの人はあの様に言ったとか、こう言われたと悩んでいる方がよくいる。
私に言わせたらそれは言葉に過ぎない。
言葉の暴力とかよく言うが、確かにそういうこともある。
そういう低級な話をしたいのではないし、また仮にそういう言葉を投げかけられたとしても、そう受け取る必要もない。つまりはそういう次元の話をしたいのではない。
魂の会話をしないとならないと思っている。
言語の意味というのは一つではないと思っている。
つまりは日本語という言語を話していて、みんな言葉が通じ、意志のソツが出来ていると思い込んでいる。
だが、人それぞれに育った環境や、考え方、表現など自由に扱い言葉を発している。
違う表現でも日本語は同じ事を言い当てる事も出来るという事だ。
逆に言うと受け取り方も、ストレートにそういう意味だと解釈する人もいるが、違うニュアンスの受け取り方もあるということだ。このニュアンスというものが、かなり幅を効かせてくる。
十人十色で受け取り方すら、見た事、聞いた事が変わってくるという事を言いたいのだ。
その様な豊かな感受性を持った人は、ストレートにその様な意味だということも理解もしている。
しかし、その背景、その時、
その場所で、その人の表現、その人の心の動きを察して
それを言葉に表した事を、何層にも理解して受け取る人もいるということだ。
これは言葉にすると厄介だが、実際日常的にその様な人はそんな事をアレコレ考えて言葉を聞いているのではない。
瞬時にして無意識に判断出来るのだ。
考えることなく、そういう豊かな感情が無意識に受信出来てしまうということだ。
ラジオでいうと、そういう受信感度が磨かれていて、周波数が何層にも受信出来てしまうのだ。
言葉では説明しにくいが、この様な人はこの話を理解出来ると思う。
みんなは言葉のキャッチボールをして、もう会話が成立していると思っている。
勿論キャッチボールは成立している場合もある。
また、成立しているかのように見えて、お互いが美しい誤解の中で成立していない場合もあると言いたいのだ。
実はこれは危険な言葉のやり取りだ。
育った環境が違い、表現も違う人が、違った受け取り方をして、ストレートの意味だけを理解するということは、会話をしていて、会話が成立されてないことに気が付いていないということだ。
そこには魂の会話がなされていない。
この人の育った環境や、その人のその言葉の使い方、または表現のクセみたいなものがあって、本来ならその単語を持っては来ないだろうという時に、その単語を使う場合がある。またはその組み立て方を使う場合がある。
それは気が付かないで使用する場合もあれば、敢えて分かっていてその表現のチョイスをする場合もあると思うのである。
それらは様々なシーンがあり、何通りにもなるので、例えを出しにくいし、仮に例えを提案することにより、聞く方はそれに意識を限定されてしまい、そこに意識がへばりついてしまうので説明は難しいのだが。
ここまでですら説明し難い話だが、更にもっと複雑な話をしなければならない。
言葉をやり取りして、それをこちらは意識の中で判断する。
つまり言葉は『音』に過ぎない。
この音に意味を持たせた物が言葉だ。
次にそれでは音の羅列を言葉と言うのか?
ならば音楽は音の羅列ではないのかという事に注目して欲しい。
音楽も音の羅列だ。
では音楽は意味を持たないのか?というと意味を持つ。
ならば単体の『音』とは何か?
車の流れる大通りの音。
すれ違いざまに会話をする人達の音。
街路樹の木の葉が風で揺れて擦り合う音。
梅雨の雨の音と秋雨の音も雨の音だが、違う音だ。
その様に音には様々な意味を持つ。しかし、それらの音には意味など無いとも取れる。
私の言いたいことはここのニュアンスを言いたい。
それらの音は誰もが当たり前と思い、当たり前に頭の中で処理をして、気にも留めない。
しかし厳としてそこに発しているものだ。
ならば、目に映る景色はどうだろう?
それらは誰でも知っていることだが、動くのだ。
車の流れは音を出しながら、車は大通りを流れていく。
それは乗用車であったり、トラックであったり、赤い色だったり白い色だったりする。
同じ車、同じ色、同じ速度のそのシーンに出会すことはかなり奇跡に近いだろう。
だが、それについてもあまり気に留めないのだ。
そんなこと日常的に当たり前という意識が考える事させようとはしない。
キャンプに行って森の中にいるとしよう。
木々が黙って立っている中でコーヒーを飲みながら、自然界を満喫することはみんなするが、それらの立っている木もそれぞれが違い人生がある。
もっというなら、黙って立っているのでは無い。
動いている事は誰も知らない。
見ようとしない。
つまり目に映るものも私は言語だと思っている。
つまりは音だ。
音が形になっているものだ。
そこで言語にせよ、音にせよ、映像にせよ、それらを見て、聞いて判断するのは実は外側にある世界のものではなく、自分内部にある意識が元だ。
それをみんな当たり前という概念で閉ざしていて、生きてもなければ死んでもない様な状態で生活をしている。
そしてそれらはある意思を持ち、そのタイミング、その間合い、ベストの状態で自分にメッセージ性の物を発しているなど考えもしない。
たまたま。 偶然。 だから?
そんなところだろうか?
うまくは話せないので、ダラダラと長くなるのも避けたいが、それらを認識している元となる意識とは物質ではないことは誰でも理解するだろう。
僕らの身体は物質で表現出来る。
肉とか、骨とか、血液とか、
心臓というポンプが血管という管に血液を送り、生きていると思っているが、それらを機械的に作ったところで、その機械は生き物にはならないだろう。
僕らはそれらと違う、物質ではない意識が内部に宿っている。
この意識とは何か?
考えてみて欲しい。
最後に話がズレたので一言だけ言っておきたい。
それは
見るもの、
聞くもの、
全て〇〇の声だ。
この〇〇はみなさんの意識にお任せしよう。
何を当てはめても間違いではない。
ただその当てはめたものは貴方が感じ、想像し、当てはめたものだろう。
そして同時にそれが貴方の意識の立ち位置だと知るべきだ。