僕は森の中の工房で仕事をしている。
昼休み車の中で食事をする。
綺麗な事務所もあるけれど、景色を眺めて食べた方がいいに決まっている。
食事をした後、アルコールストーブでコーヒーを沸かす。
これはクセになっているので、都会に行っても、駐車場とかでも普通に沸かしている。
そんなスタイルがいい。
セブンに行けば100円で飲めるじゃないか?
手間いらずで飲めるじゃないか?と思われるかもしれない。
勿論、それは手間いらずだ。
それに慣れると段々と、全てが殺伐としてきて、大切なものが失われてしまう気がする。
大切なものとは何か?
何でも合理的にしか考えられない思考に縛られてしまう。
それらが意識にも挙がらない人間になってしまう。
そんなことすら気が付かないのは、怖いものだ。
不便さを楽しむ豊かさと言うものは、見えないものが見えてきたりする。
不便を不便としか認識出来ない意識には豊かさという物が見えないことを意味する。
グツグツと沸いたお湯をコーヒーに落としながら、入れ立てのコーヒーをすすり、こんな景色を眺めている至福な時間が昼休みだ。
みんなにひとつ考えて欲しいことがある。
新幹線やスマホは、より豊かになる為に開発された。
誰も否定しないだろう。
昔は東京から大阪を各駅停車しかなかった時代すらある。
東京から大阪に出張するなら泊まりで行かないとならなかったが、今では日帰りなんか、チョチョイのチョイで出来てしまう。
スマホだってそうだ。
どこでも誰とでもすぐに話せる。
昔は携帯など無くて、駅には待ち合わせ用の掲示板の黒板があった。
『〇〇で待つ』とか、『先に行く』などよく目にしたものだ。
だから今は便利極まりないのは確かにそうだ。
だが考えて欲しい。
豊かになる為に開発されたものなのに、益々人々は忙しくなっていないだろうか?
携帯に縛られていないだろうか?
簡単に出張スケジュールを詰め込まれてはいないだろうか?
豊かになる為に開発されたのに、益々忙しくなっていく矛盾。
例えば駅の待ち合わせのことを話したが、電話のない時代は想像力というものがあった。
会えなければ、あの人ならこの様な行動に出るだろう。
この表現ならこの様に伝わるだろうなど、四角四面にそう言ったからそうした的な事では通用しない時代があった。
僕はこの様な思考が最近の人達は見事に欠落していると思うのだ。
高々コーヒーを沸かすだけの話だが、無駄とか、不便とかその様な事をその様な概念から外して世の中を見てみると、違う世界が見えてくるものだ。
不便とか、無駄とか、
そういう見方から離れた暮らし方が、すごいという事を教えてくれる年配者も居なくなった。
段々と殺伐として、機械化された思考にみんながなっていく様に思えてならない。
シンプルに考えたら分かる。
便利という名の束縛や拘束。
便利ってなんだ?
合理的とは何か?