血統と霊統

血液は大切だ。
あらゆる病気も血液から現れる。
聖書でも言っているが、血は全てを物語る。
キリスト教でも、死んでも輸血しないという組織すらある。
それくらい血液は大事だと古代から言われている。

良く血統と昔から言われ、血統を守るために各家庭でもその血筋を大切に守っている風習は今も残っている。

その意味はわからずでも、お家が絶えるなど血統を守るという風習がある。

長男は跡を継ぐなど、その様な発想から生まれている。

しかしそれらは物質だ。
物質的に言えばそうだが、
見えない世界に行くと、血統より、霊統というのがある。

それは意識体に置いて、血統に似た性質を持つ。

何寄りなのか、どの様な特質を持つのかということだ。

血統を守るというのは本能であり、意識体はそれを無意識に守ろうとする。

自分の拠り所であり、使命という言い方をすれば簡単だが、実はそれすら自然界の一部の行為であり、個であることを知らなくてはならない。

つまりは誇りや使命に駆られているつもりになっているが、それも全ではなく、個であるということ。

しかして個が無くては全はない。
全は個の集まりであり、個は全の一部ということ。
つまりは個は全でもあるということ。

しかしながら、全では無いという、このボケあった世界で出来ている。

それであって、それで無い。

心筋梗塞で倒れ、心臓に負担がかかる感触を今は感じるようになれた。

健康体では感じることすら出来ない。

感じるようになれたが故に、血液の大切さ、呼吸の大切さを知識で知るのでは無く、
体感できている。

それは理屈では無く体感出来ているということだ。

これは天と地ほどの差があることも知った。

突き詰めていくと、身体の血液の流れや、滞っている何かすら分かる様になる。

そこに呼吸がどの様に感化して来るのかということも。

呼吸即ち生命。

生きるということ。

死ぬということ。

それらも知識で解釈するのでなく、体感として理解する様になる。

僕らの命は不思議だ。

意識も同じであり、変えることも出来ると言えば、確かにそうだが、変えることなど出来ないと言っても合っている。

ボケあっている。

ひとつ言えることは、確定することは何一つ出来ないと言ったことだろうか。

それは僕らの領域ではないのかもしれない。

自分で全てを決断し、判断しているが、実はそう思い込んでいるだけであり、何一つ確定出来ることはない。

言わば受信機でしかない。

それほど無力だ。

ただその無力故に、その確定する力に委ねた時、全てがうまくいく様になっていることも理解する。

自分が出来るとか、出来ないとか、その様な概念から外れると、そこに見えなかったものが見えて来る。

血液から離れた話になってしまったが、物質世界において血液はそれほど重要であり、呼吸もまた同じだ。

赤ちゃんも母乳で育てるといいというが、母乳は白い血液だ。
粉ミルクは四つ足の生き物の乳を加工したに過ぎない。

所詮四つ足の生き物の乳を飲んでいるに過ぎない。

それで育つ子供が、人間の血液である母乳で育った子と同じわけがないことは、静かに考えれば誰でも分かるが、知識という概念が邪魔をするし、その様に科学という信仰に騙された信者だらけの世の中では、それが正義とみなされているから仕方ない。

それらの人々と同じ世界に住みながら、違う世界にいる事を誰も知らない。

霊統が違うということは、
その辺から根本的に違うのだ。

霊統は血統という物を超えている。

例え違う家に生まれたとしても、霊統が同じということはあるのだ。

その逆もある。

血液は血ではない。

呼吸とは酸素を吸うことではない。

厳密に言うと、そうであって、そうではないということだ。

話がまとまらないが、言葉では説明出来ないが故に、世間もまたこれを知らない。